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  • 2011.09.13 Tuesday
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身体を使って祈る


今日の記事は、
先日書きました「願掛け」の続き的内容です。
http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=17



「祈る」と言うと、一般的には、

「心の中で」願望を唱えることを示すものですが、

人は心身一如、

身体を使って祈るということも忘れてはなりません。



たとえば、身近なところで言いますと、

神社に参拝する際は、

手水で両手と口を清めてから、

御神前に向かい、二拝二拍手一拝をする

(拝とは、90度の深いお辞儀のことです)

という作法があります。

これらの作法を通じ、具体的に身体を使って

神々への礼を尽くしている訳です。



また、滝や海での水垢離(みずごり)、禊(みそぎ)、

山籠もり、断食、遍路といった、修行もあります。

修験道には、迷妄から解き放たれ験徳を得るために、

身体を極限まで酷使する、「十界の行」があります。

水断ち、断食、科そう(ひたすら険しい山道を歩く)、

水垢離、座禅などを含む、非常に厳しい行です。



この修験道の修行については、数日間の体験をさせて

くれる場もありますので、関心のある方は参加させて

頂くのも良いかと思いますよ。



・・・takezoは、

そんな苦行を個人でやってのけた男を、

ひとり知ってますが。



雨が降るとエンジン停止になる車に乗り(+眠り)、

食費1日300円で連日半断食状態、

冬でも、公園の冷たい水道水で身を清め、

夏は、世にも珍しいソルトライン*を衣服にデザインしつつ、

全国各地でお巡りさんに声をかけられながら*、

およそ2年の月日をかけて、

日本国中の遺跡史跡・神社仏閣行脚を敢行した男。

大変な修行です。



そんな男の紀行(奇行?)記録「たくまの旅日記」。

ブログ作品史上、名作中の名作です。

(右にリンクがあります)。



註:

*ソルトライン:汗でぐっしょり濡れた衣服が乾くとき、

布地の表面に浮き上がってくる、汗の結晶の創り出す模様。

そのときどきの体調や気象条件等でデザインの変わる、

いわば自然の芸術。


*全国各地でお巡りさんに声を:

怪しげな人物に対して行われる、要するに職務質問。

質問内容はマニュアル化されているので、

2,3度受ければ、どの質問の後に何を訊かれるか、

どのタイミングで身分証や危険物を提示するか等、

機敏且つエレガントに対応することができる。

また、マニュアルを超えたところに現れる、

地域性及び、警察官個人の人間観察もできる。



たくまさんのように捨て身(というか、

なにか・・・色んなものを捨ててる気が・・・)の

修行をするのは大変難しく勇気の要ることですが、

常人が普段の生活を送りながらにして

日常に取り入れられる、小さな修行もあります。

それが、願掛けです。



強張った筋肉間接を緩ませるには、

一度、全身を更に緊張させてみるのが良いように、


炎症を起こした喉には、

更に喉をひりひりさせる生姜エキスが

同種療法効果を生じさせるように、


悩み多き辛い生活には、もうひと打ちの鞭を。

それ即ち、願掛け。



願掛けには主に、

・余剰的な行為を継続して行う(お百度参り、写経など)。

・制限的な行為を継続して行う(お茶断ちなどの断ち物)。

の2種があります。


要するに、

・「何かをする」ことと、

・「何かをしない」こと、です。



また、願掛けの期間には、

・一定の日数(回数)を決めて行う場合と、

・願いが叶うまで続ける場合とがあります。



願掛けは、決めた期間毎日継続して行えるよう、

「ちょっとだけ大変」くらいの課題内容に

するのが良いかと思います。

無理し過ぎず、行った後に軽い達成感が

ある内容が良いのではないでしょうか。



断食のように厳しい行を選んだ場合は、

実行期間を1〜3日にして、

定期的に行う(1ヶ月に1度など)という

継続の仕方も良いと思います。



決めた課題を行い、

1週間、1ヶ月、3ヶ月・・・半年・・・1年と経つと、

必ず、「自分はこれだけのことをやってきた」

という自信がつきますよ。

そのためにも、毎日継続できる課題が好ましいのです。



では、実際に、どんな願掛けができるでしょうか。



*「何かをする」系の願掛けで、

上に挙げたお百度参りや写経の他に

takezoが思いつくものですと、

・掃除(便所含む)

・風呂場で水垢離(水をかぶる)

・道ばたのゴミを拾う。


・・・これくらいしか思いつかないんですが。

このような清め系の行為しか思いつかないのは、

takezoが伝統的日本人だからなのか、

頭が堅いからなのか、

それとも心身住まい共に

汚れきっているからなのでしょうか?



あ、まだありますね。

・ヨガやストレッチを10分行う。

・募金する。


・・・むう、けっこう難しいものです。



ちなみに、takezoは中学時代に

水垢離の行を3ヶ月続けたことがあります。

中3の受験前、秋から冬にかけてのことでした。

いやね、成績が芳しくなかったのですよ。

これでは希望する高校には入れないと、

藁をも縋る思いで、毎晩風呂から出る前に、

「お願いします、第一志望の高校に行かせて下さい!」

とバスマットの上で正座して手を合わせた後、

手桶で頭から水をかぶっておりました。

その後、「ありがとうございます」とまた手を合わせ。


3ヶ月の間に、徐々に成績が上がり、

無事、希望する高校に入ることができました。


今から考えますと、冷水を浴びることで、

精神統一ができ、集中力が上がったとか、

自分が必死であることが自覚できたとか、

そういうことだったのではないかと思いますが、

いやあ、あれは自信になりました(笑)。




*「何かをしない」断ち物系の願掛けですと、

これはもう、山ほどあるような気がします。

お茶、コーヒー、酒、清涼飲料水、肉、砂糖、

チョコレート、ケーキ、テレビ、夜遊び・・・。

全ての嗜好品、贅沢品、娯楽はその対象になります。


こうして考えてみると、

我々が普段、如何に恵まれた暮らしをしているか、

改めて分かるというものですね。


上にも書きましたが、決めた日に断食をするとか、

1日のご飯を1膳にするなども断ち物になるでしょう。


節電のために、夜10時に就寝するなんていうのも、

広い意味で断ち物になるかと。



衣食住に関わるものを「断つ」・「慎む」、

つまり「我慢する」ことは、それだけエコロジー、

つまり環境保護に繋がります。

それは、自然を大事にすることであり、

結局、自分の生活を大事にすることにもなります。



皆様独自の「願掛け」案、お待ちしています。



・・・なんて言うと、

「ぢゃ、ピーマン断ち〜」とか「人参断ち♪」とか

ここぞとばかりに言い出すそこの迷妄の輩!

とりあえず釘を刺しときます。



・・・言い出してるのは私じゃないか、

という気がしてきました。 



期間と課題が決まったら、

開始するに当たって、そのことを神仏に報告します。

「○月○日から、〜の期間(もしくは、願いが叶うまで)

〜をしますので、どうかよろしくお導き下さい・お見護り下さい」

といった内容です。



願掛け期間が終わったとき、願いが叶ったときにも、

報告とお礼のお祈りを、忘れないで下さいね。





ちなみに、「塩断ち」という伝統的な断ち物がありまして、

takezoは、「し、死ぬじゃないか」と考えていたのですが、

一定期間塩断ちすると、舌が食材に含まれている自然な塩分を

感じ取れるようになり、以後の減塩食生活に効果があるとの

ことで、高血圧の治療法にも取り入れられているようです。

参考はこちら。↓

http://www6.plala.or.jp/yamaski/free/heartland.htm


いや、昔の人の智恵って素晴らしいですね!



人事を尽くして

 

前回の補足です。


幸せになるには、

「やるべきことを、全部やる」しかなく、

「やるべきことができてない」自分は、

幸せになる資格はない、

と考える傾向にある自分に厳しい人は、

「やるべきこと」ができるよう、

その点を神々に祈れば良いと思います。



「人事を尽くして天命を待つ」

という言葉があります。

これは、人事=努力的行為を完遂した後で、

その努力が実るかどうか、

天の裁定を待てということですが、

「人事を尽くすこと」そのものについて、

「人事を尽くせるように」と祈るのもまた良し、

ということです。



祈ることに時間的・条件的制約は無いのですから、

努力開始前:「これから頑張ります」

努力の最中:「今、頑張ってます」

努力を成し遂げた後:「頑張りました」

と、いつでも報告と感謝の祈りを捧げれば良い

という訳です。


---


話変わりますが、

「人事を尽くして天命を待つ」と言えば、

takezo、ほろ苦い思い出がありまして。



・・・そう、あれは未だtakezoが、

20代半ばの初々しき乙女であった頃

(戯れ言を聞き流すのも、

大人の優しさってもんです)、

フランスの語学学校に通っていたときのこと。



フランス人の担当教師

(推定年齢当時50代半ばの女性)が、

ある日の授業で

「神は、自らを助くる者を助く」

という慣用句を出したんですね。

「努力すれば、神が助けてくれる」

ということですね。



そのとき私が思ったのは、

「ああ、こういう慣用句は日本には無いなあ」。



いや、もちろんですね、

「頑張ってれば、神様が助けてくれるよ!」って、

誰がどんな場面で言ってもおかしくない、

まっとうで真っ直ぐな励ましの言葉ですよね。

私自身も普段使ってますし、

誰かからこのように言ってもらったこともあります。

でも、この言葉、諺や慣用句のような定型句としては

日本には存在しないじゃないですか、やっぱり。

それこそ、この「神と努力」に関する慣用句が

挙がった時点で私が思い出していたのは、

「人事を尽くして天命を待つ」だったんです。



・「神は、自らを助くる者を助く」

・「人事を尽くして天命を待つ」

この両文は、似ているようで非なるものですよね。



ですが、

英日、仏日慣用句辞典のようなものを見ますと、

「神は、自らを助くる者を助く」の原文が、

「人事を尽くして天命を待つ」の日本語文で

訳されていることがあったりするので、

その度に、「それは違うだろー?」と

悶々としているtakezoです。



どちらも、

努力することの大切さを述べている訳ではありますが、

前者は、努力は実るであろうとの結果に主眼が置かれており、

後者は、結果などどうでも良くなるくらい努力してみよ、と、

むしろその過程に力点が置かれている訳です。



「いいことしたら、ご褒美があるよ」

「悪いことしたら、ばちが当たるよ」

「努力すれば、叶うよ」

「努力しなかったら、叶わないよ」

・・・「神は、自らを助くる者を助く」は、

このように、

子どもにも理解できる単純明快な因果法則を

説いています。



一方、「人事を尽くして天命を待つ」。

単純じゃありません、ひねりが効いてます。

努力しても・・・叶うとは限らない。

だが、努力する、その行動こそが大切なのだ。

先の結果に囚われず、今この瞬間を懸命に生きてみろ。

結果などどうでも良いことではないか?

その境地に至れるくらい、いのちを燃やしてみたまへ。



なんと奥深い言葉であることでしょう!

酸いも甘いも噛み分けた大人じゃなきゃ、

この言葉を理解することはできません。



 


男には、負けると分かっていても、

戦わねばならないときがある」。



鉄郎はそれを知っていたが、

フランスの子どもらに、

この切なくも美しい生き様が、

孤独な笑みを夕日に晒して

背中で泣いてる男の美学が、

分かるのか、分かるというのかね、あぁん?




・・・すいません、つい我を忘れて、

フランスの子ども達にからんでしまいました。

(しかも微妙に色んなものが混ざってしまいました)。




で、語学学校の授業の話に戻りますが、

「神は、自らを助くる者を助く」

という慣用句を出した後、この先生は、

国籍の違う生徒達に、

「この慣用句、あなたの国にも存在しますか?」

と質問していったんですね。



指名され、

「あります。英語でも全く同じ言い方です」、

「私の国にも、同じ言葉があります」

「僕の国でも、よく使われています」

と次々に答えていったのは、

アメリカ人、ドイツ人、スペイン人、スウェーデン人、

ルーマニア人。要するに、欧米系の生徒達。



先生、ここで質問を打ち切り、

満足そうにまとめてしまいました。

「そうです・・・努力しましょう、

そうすれば神は助けてくれる、

この慣用句は、世界中で普遍なのです!」。



・・・ぅおい!

何故、最後列向かって右端に座っている

日本人女子生徒を指名せぬか?

・・・一番後ろの端っこに座っているのが悪かった?



が、さすがに、ただでさえ目つきの悪い

日本人女子学生が、ぎろぎろ鋭い視線を

一直線に飛ばしているのに気づいた先生、

付け足しのようにtakezoを指名。

「あなたの国にも、ありますよね?」

当然のように肯定的回答を求められ、

「いいえ、アリマセン!」

胸を張って否定したところ、

「慣用句は国によって違いますからね」

と、先生は即答。

え”ええ? ついさっき「普遍」って言わなかった!?



不測の事態に対応できるだけの語学力も無く、

二の句が継げず呆然としている間に、

先生は、何事も無かったかのように、

「さあて、来週の宿題は〜」と、

次の話題に移っていきました・・・。



ま、負けると分かっていたら、戦ってなかったのに・・・!



という訳で、

10と余年、胸の中でくすぶっていた

「人事を尽くして天命を待つ」について、

語らせてもらいました。



・・・江戸の仇を長崎で討つ、の次第です。





ちなみに、「神は自らを助くる者を助く」は、

イングランドの哲学者・政治家

アルジャーノン・シドニー (1622-1683)

最初に言ったようです。

原文は、"God helps those who help themselves.”


シドニーからの引用かどうかは、寡聞にして知りませんが、

スコットランドの作家サミュエル・スマイルズ(1812-1904)や

ドイツの社会学者のマックス・ウェーバー(1864-1920)も、

自著に同様の言葉を記しており、"God"(神)が、"Heaven"(天)

になっていて、以下同文です。


・・・そもそも原文が英語なら、

「あります。英語でも全く同じ言い方です」って

当然だったんじゃないか・・・。



恐縮して祈る

 

またまた、読者のココさんから有意義なコメントを

頂きました。



> 私は自分に自信が無いので、

「やることやった」状態でも保証行為と考えてしまい、

願望が叶ったというよりは、ラッキーだった、みたいな感じです。

でも、その結果、良いことが起こるのなら素直に喜んでもいいのかな。



おそらくココさんは、非常に自分に厳しい方で、

「やること、やる」のが普通のことで、

願い事が叶わないのは

「やることやってない」自分のせいなので、

それを棚に上げて神に助けを祈るなんて、

他力本願で図々しく、恥ずかしいことだと

考えていらっしゃるのだと思います。


そういう考え方をする人も、

けっこういるのではないかと思います。


幸せになりたい。

で、幸せになるには、

「やるべきことを、全部やる」しかない。

でも、その状態になかなか持って行けない。

そんな自分には、幸せになる資格、

幸せになりたいと願う資格さえ無い、

と思っているんですね。



そういう人は、もういっそのこと、

・・・謝ってしまえば良いのではないでしょうか?

「自分には幸せになる資格が無いのに、

幸せになりたいと思ってしまいます。

図々しくて本当にすみません、ごめんなさい」と。



ちなみに、神社で奉読される祈願の祝詞(のりと)は、

・「かけまくもかしこき○神社の大神に、かしこみかしこみも申す

という文に始まり、

・日常の御守護に対する感謝を「かたじけなみ奉り」と表明し、

・「かしこかれども」と願い事を述べ、

・「かしこみかしこみも申す」で終わります。


「心にかけるのさえ恐れ多い貴方様に、大変恐縮しつつ申し上げます」

「日頃のご厚意、恐れ入ります」

「恐れ入りますが、本日もまたお願いがございまして」

「誠に恐縮ではありますが、お願い致しました」


と、もうひたすら恐縮している訳です。


「恐れ入ります」、「かたじけない」、

「申し訳ない」、「ありがたい」・・・

お詫びが同時にお礼の言葉となる日本語文化で

生きる者にとって、願い事をするというのは、

本来そういう謙虚なものだと思います。

それが、欲望実現を祈ることを容認されている文化の中で

勘違いしないよう、自分を律していく法だと思います。


---


話がずれたかもしれませんが、

「幸せになりたいと祈る資格さえ無い」

と思っている人でも、やはり

祈らないよりは、祈る方が絶対に良いと思いますよ。

祈らないと、何も起こりませんが、

祈るというのは、ひとつの行為、”働きかけ”ですから。



「幸せになる資格が無い」と思っている状態は

自分を閉ざしている状態です。

こういう人は、大体口も堅いです。

「自分には、幸せになる資格は無いと思っている」

という本当の気持ちを、他者に漏らしたことさえ

無いのではないでしょうか。

そういう心情の吐露さえ、こういう人には、

恥や罪になってしまうでしょうからね。



でも、神々なら、

個人情報の秘密厳守(笑)にして下さいますから、

安心して弱音を吐くことができます。

彼らに祈ることで、自分の心を開く糸口になります。

自分の心を開くと、今まで聞こえなかった、

色々な情報が少しずつ入ってくるようになります。

それらの情報は、きっと、

「自分は本当に幸せになる資格が無いのか?」

「幸せになる資格とは何なのだ?」

「実は、自分は幸せになってもいいんじゃないか?」

といったことを考えられる材料となりますよ。



それは、あなたの祈りに応えて下さった

神々からの言葉です。



がむしゃらに祈る

 


願望の内容によって、

その願望に相応しい祈り方があるのではないか

と思っています。



自分が想像してみて、

「うひゃひゃひゃ」とか「にゃほほほ」といった

笑いが自然と溢れ出すような願いについては

(*笑い方には個人差があります)、

「ああ、私は幸せだなあ。ありがとうございます!」

と、既に叶っている気分で、自己肯定の祈り方を

すれば良いと思います。というか、

自然とそういう感謝の祈り方ができると思います。

そういう祈りは、幸福感を何倍にも振幅させ、

願いは叶うことになるでしょう。



逆に、自分が想像してみて、

眉間に皺が寄ったり、喉が詰まったり、

顔に青い縦線入ったりするような状態に

なってしまうとき

(*表情・体感にも個人差があります)、

そのときは、全身全霊ありったけの想いを込めて

「どうかお願いします! 助けて下さい!」

真剣且つ必死、平身低頭しつつ、

神の御加護を乞う方が良いと思います。



大事な人が病気になったり辛く哀しい目に

あったりしていると想像して下さい。

「何とかしてあげたい、でも、自分にできる

ことは限られているし・・・」。そんなとき、

とても前者のような祈り方はできないでしょう。

普通に、後者のような必死の祈り方になると思います。



自分のことも、

そんな自分の大事な人同様に扱ってあげて下さい。



人間の身体は、常にどこか緊張し強張っており、

リラックスする方が難しいものです。

強張った身体から力を抜こうとするときには、

一度全身を更に緊張させ強張らせ、息を止めてから、

一気に息を吐き出しながら力を抜く方が、

大きな脱力効果があります。



この理論は、祈りにも適用できると思っています。



願い事を、リラックスして伸びやかに祈れない人、

自分を素直に褒めてあげられない人は、

一度、なりふり構わず、がむしゃらに、

神に助けを乞うことをしてみるべきなのです。

それくらい、自分自身に、真剣になることです。



自己否定の言葉もどんどん使っていいんです。

「駄目な自分なんです」

「馬鹿な自分なんです」

「何をやっても上手くいかないんです」

「幸せになれる気がしないんです」

「また失敗してしまいました」

「一生このままなのでしょうか」

「不安で恐くて寂しくてたまりません」

「どうしたらいいでしょう。教えて下さい。お願いします」。



巷の「成功法則」教本では、

「〜を叶えて下さい・こんな自分になりたいんです」

という祈り方をすると、今現在の叶っていない状態を

肯定してしまうことになるので、

「自分の願いは既に叶えられており、自分は満たされ、

愛され、信頼され、有能で、美しい」等と祈った方が

良いと言われています。



この弁からしますと、たとえば上の、

「何をやっても上手くいかないんです」なんて、

180度間違った祈り方ということになってしまいます。

「全て上手くいってます・上手くいきます」、

こう祈れということですよね。



ですが、

「全て上手くいってます・上手くいきます」ですと、

=「何をやっても上手くいかない」と今現在思い悩んでいる

自分を、逆に否定してしまうことになってしまいます。



逆の視点から言わせて頂きますと、

「何をやっても上手くいかないんです」と神に訴えることは、

「何をやっても上手くいかない」と今現在思っている自分と、

「全て上手くいくようになりたい」という未来の自分に対する希望を、

同時に肯定していることになります。



一見、否定的な言葉に見えても、その土台に

「その状態を払拭、改善したいんだ」という希望が

秘められているなら、ネガティブな言靈は働きません。

それに、「上手くいくようになりたい」という願望を

叶えるためにも、

今現在の自分自身をどう捉えているのか、

自分がどういう状態にあるのか、

という認識はむしろ必要なことです。

そこからがスタートなのですから。



正直な自分になって、正直な自分の言葉で、

真剣に、必死に、がむしゃらに祈って下さい。

そうした祈りの体験を何度も何度も繰り返してこそ、

リラックスして自然に笑える祈り方が

会得できることになりますよ。



正直に祈る

 

「願いを叶える法則」的な文章でよく言われている、

「願いが叶った状態を具体的に思い浮かべながら、祈る」、

これ、その通りだと思います。



たとえばですね、

前回から例として挙げていますが、

誰かから、その人の願望について話される

という情況を想定してみて下さい。



「100万円あったらいいのに、

100万円手に入らないかなあ・・・」

なんて言われても、

「・・・」返事のしようが無いと思います。

これでは単なるぼやきかと。



でも、これが、

「100万円あったら、年間30万のエステに申し込んで

あと5キロ落として綺麗になって、素敵な水着を着られる

ようになったら、彼とエーゲ海クルーズに行きたいんだー」、

こんな感じで具体的且つ楽しそうに言われますと、

これは、夢・希望になりますから、

「実現するといいねー」と相槌打てますし、

「エステなら安くていいとこ知ってるよ」とか

「エーゲ海よりホットな穴場は八丈島だぜ」とか

アイデアを出してあげられるかもしれないですよね

(よ、余計なことを・・・)。



これがまた更に、

「100万円あったら、おじいちゃんとおばあちゃんが

ずっと行きたがってた東○太秦映画村に連れて行ってあげて、

おじいちゃんには、念願だった殺陣講座を体験してもらうし、

おばあちゃんには、くのいちのコスプレを楽しんでもらいたいの。

で、余ったお金は、森林保護団体に募金して檜の苗木を育てるのに

使ってもらいたいんだー」。

・・・こんな、家族孝行且つ世のため人のためになる企画

語られた日にゃ、「よっしゃ、ここは奢りだ!」と

叫びたくなりますよね?・・・ね!?



要するに、想像して自分が嬉しくなるような願望は、

他人も聴いていて楽しくなるし、それが更に、

世のため人のために繋がることならば、

協力してあげたいという気にもなるということなのです。

そうした願いは、神にも届きやすいんです。



・・・と言うのものの、

そんな「前向き」思考に疲れ果てている人だって

沢山いると思います。



自分に自信がない、

だからこそ明るく前向きになろうと

「叶うんだ、もう叶ってる」と信じ込もうと頑張るが、

そのことが逆に、自分不信を強化することになってしまう。



でも、それはそうです。

だって、明るく前向きになろうとすることは、

今現在の暗くてネガティブな自分を否定・隠匿する

ことになりもするのですから。



「私って、明るくてポジティブ思考で、頑張ってるの!」

という雰囲気を醸し出す人が、下手をすれば、愚痴の多い人

と同じくらい、他の人間をけっこう疲れさせてしまうのは、

・・・正直じゃないからです。

それが見栄であり、演技だからです。



「ああ、私って、なんでこう自分に自信が無くて、

ネガティブなのかな」と正直に言える人の方が、

周囲は好感をもつものです。



周囲はともかく、「明るく前向きな自分」を

演じ続ける人というのは、そのうち、本当の自分

というものが分からなくなってしまいます。

「本当の自分って何だ?」という話ですが、

自分が、何が好きで、何を受けつけなくて、

何が必要で、何が不必要で、どういう状態で安らげ、

どういう状態を不快に感じるのか等々、麻痺していく

ということです。



そういう人は、

・・・ちょっと言い方は厳しいんですが、

自分の人生に真剣味が足りないと思います。

「〜さんって、いつも明るくて前向きね」と

周囲から言われるのが目標なら、それもいいと

思うんですが、そこで満足できないから、

悩み苦しむんですよね。

だったら、もう自分を誤魔化すのはやめて、

もっと真剣になってみませんか。



今まで周囲に対して、自分を精一杯飾ることで

バランスを取ってきた人は、急に「正直になる」

と言っても、難しいと思います。

でも、神に見栄を張る必要なんて無いんです。



たとえば、

「結婚したい」という願望のある人は、

結婚できればいいって訳じゃないですよね。

「信頼し合い愛し合える人と、幸せな

家庭生活をおくりたい」ってことですよね。

そう想像して楽しくなれる人は、後は、

「相手が見つかりますように」と

御縁を祈れば良いのですが、

「自分には、そんな相手なんて現れないんだ」

という想いが根強く根底にある人は、

そこから眼を逸らして

「素敵な人が現れる、もうすぐ出会える」と

無理矢理信じ込もうとしても、

おそらく辛いだけでしょう。



であれば、

「愛し愛され信頼できる人と出会って、

幸せな結婚をしたいのです。でも、どうしても

自分がそんな相手に出会えるとは思えないんです。

自分に自信が無くて、辛くて苦しいんです。

幸せな結婚をしている人を見ると嫉妬してしまい、

周囲から結婚について色々言われるのも、いちいち

気にしてしまう、ちっぽけな自分なんです。

こんな私を、助けて下さい」

と、願望=悩み事の核心部分をこそ、

真剣に祈るべきなんです。



他人に言いにくいことでも、神なら聴いてくれます。



正直に祈れるようになると、楽になれます。

楽になれれば、何かが変わっていきますよ。



相談上手は、祈り上手


願い事をする際には、正直であることが

大事だと思います。



願い事は、悩み事にも繋がっています。



たとえば、

「結婚したい」という願望の裏にあるのは、

・その相手が現れない(異性と縁がない)。

・彼氏(彼女)はいるけれど、結婚に至らない。

といった悩み。



そのまた裏にあるのは、

・自分は女性(男性)として魅力が無い。

・自分は家庭向きではない。

・相手から、一生の伴侶と思われてない。

・相手を、一生の伴侶と思えない。

・出会い自体が無い。

・親や周囲から反対されている。

といった思い(込み)や劣等感、障害。



そして、そのまた裏にあるのは、

・自分の容姿、性格、経歴、家事、仕事、収入、

 その他に自信がない。

・相手の容姿、性格、経歴、家事、仕事、収入、

 その他に不満(不安)がある。

・親や周囲との関係自体が上手くいっておらず、

 反対を押し切った場合の、後が恐い。

といった思い(込み)や劣等感、不安、恐怖。



そして、またまたその裏にあるものを、

「何故、自分は〜と思い込んでいるのか」、

「何故、不満や不安、恐怖があるのか」、

・・・と追求していくと、

自分の悩みの根っこにあるものが

分かってくるでしょう。



願い事に正直になるということは、

悩み事に正直になるということでもあり、

悩みの原因を掘り下げていくということです。

悩み事に蓋をしていては、幸せにはなれないからです。



人には、隠しているつもりが無くても、

心を閉ざして考えないようにしていることがあります。

それを、1枚1枚薄皮を剥がすように、開いていくこと。

1枚開ければ、その度に、幸福感が得られます。

正直になるのも、ひとつの訓練、練習です。



自分に正直に悩み事を掘り下げていけば、

自分が本当は何に悩んでいて、

本当は何を願っているのかも、

クリアになるのです。



ただ、これをひとりでやるのは、なかなか難しいもの。


でも、そのために、家族や友人がいてくれるのです。


家族との関係そのものが、悩みになっているときは、

「また、母親と喧嘩しちゃってさ・・・」と、

信頼できる友人に、聴いてもらえばいいのです。



「悩みを話すと迷惑に思われるのでは?

ただの愚痴になってしまうし・・・」

と躊躇うかもしれませんが、そういう人は、

自分のことを考えてみると良いです。

誰かから、どんな言い方や態度で

悩み事を話されれば、迷惑に感じないか。


以下のような感じではないでしょうか。


・悩み事を聴いてもらって申し訳ない、

という気持ちが感じられること。

・聴いてくれる相手に理解しやすいよう、

出来るだけ明確で簡潔な内容で話そうと

してくれていること。

・聴いてもらったことに感謝の念があること。

・その後の報告があること。


内容を明確にするためには、紙に書いてまとめる

必要もあるかもしれません(その間に問題の糸口を

見つけちゃったりもするものですが)。



何でも話せる真の友がいる人は良いですが、

そういう親友がいない場合は、直感で、

「この人なら、聴いてもらえそう」

「この人に、聴いてもらいたい」

という相手に話してみることです。

自分の心に正直であろうとするならば、

そういう相手が誰か分かりますよ。



神に願い事(悩み事)を聴いてもらう祈り方は、

友人に相談する方法と基本的に同じ、と考えると

良いでしょう。



信頼関係を培う

 

前回からの続きで、どうしたら、

自分に相応しい、身の丈に合った願いを

誠実に祈ることができるか

を考えていきたいと思います。



実は、簡単なことです。


自分が普段、他者にどうお願いしているかを、

思い出してみればいいんです。

もしくは、自分が他者から何か頼まれたとき、

それがどんな人で、どんなふうにお願いされたら、

聴いてあげたいという気になるかを。



たとえば、借金。

どんなに親しい友人でも、

いや親しい友人同士だからこそ、

避けたいお金の貸し借り。


貸してもらえるのはどんなときでしょう。



琉球史研究家のアラミタマさんは、

大の親友から借金を頼まれ、

「あげる」つもりで、気持ち良く

貸してあげたということです。

http://obotsu-sedi.jugem.jp/?eid=48



アラミタマさんが「あげてもいい」という

気持ちにまでなったのは、この友人が普段から

アラミタマさんとご家族を助けてくれている人物で、

安易に「金銭面で人を頼るような奴」ではなく、

彼が努力していることも知っているからです。

そして、借りるにせよ、アラミタマさんにとって

出来るだけ負担にならないよう謙虚な金額を、

謙虚にお願いした。


ここにあるのは、両者の深い信頼関係です。


過去のtakezoが「マーフィの成功法則」で

失敗したのは、まさにこの点だったのです。

信頼関係どころか、疎遠な関係の「宇宙」に、

「あの人って億万長者で気前いいから、頼めばくれるよ〜」

と聴いて、100万円ねだっていたようなものだったんです。

そんなごり押し、叶う方がむしろおかしかったんデス!



誰かに何かをお願いするときは、その相手との間に

既に信頼関係が培われていなければなりません。

そんな相手にお願いする内容は、自然と、

自分に必要なだけの謙虚なものになるでしょう。


でも、何かをお願いするために、誰かと仲良く

なっておくというのであれば、それは「利用」です。

誰だってあまりいい気分はしないじゃないですか、

「あの人と仲良くしておくと、何かと便宜を図って

くれるから」とすり寄られたり、下心で親切にされる

なんて。



人とも神とも、おつき合いの基本はギヴ&テイクと

前々回で書きましたが、それは計算のことではなく、

好きだから、何かをして喜ばせてあげたい、

相手から何かしてもらってとても嬉しいが、

何もしてもらわなくてもいい、

傍にいてくれるだけで嬉しい、ありがたい、

と、そういう真心のこもった関係でありたい

ということです。



結局のところ、

恩返しということを考えれば良いかもしれません

(真心を込めた視点からですよ)。

”願い事を叶えてもらったから、恩返しをする”ではなく、

既に受けている数々の恩をお返しするという気持ちで、

小さな徳行を生活に取り入れるということです。



・・・うん、何かいいこと言ったぞ、takezo。




私も、今日から心を入れ替え、真心以て徳を積みます。

そして祈ります。

「takezoにも、アラミタマさんのような大親友が、

100人くらいできますように♪」。



小さな願い、無理な願い


前回から引き続き、願掛けについて書こうと

思ったのですが、その前に、

「マーフィの成功法則」実践の上で生じる困難、

最後まで書き進めることにします。


初めての方は、この辺りをご参照下さい。

http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=6

http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=7

http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=11

http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=15

http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=16



では、最後に4)です。


4)いきなり大きな願い事をしても、「無理だ」という

気持ちが起こりやすいので、達成しやすい小さく具体的な

願い事から練習する。



J.マーフィによってではなく、彼の成功法則が実践しやすくなるよう

その周辺で語られているテクニックだと思うのですが、

「神を全身で信じろ、ただ無条件に信じろ」と言っている傍で

この方策を勧めるのって、神を試していることになりませんかね?


全てを委ねて信じろと言うのであれば、

信じるか信じないかの、100か0しかないでしょう。

5や10を試して、「叶ったから、信じる」、

「叶わなかったから、信じられない」、

これは矛盾というか、不誠実ですよ・・・。


世界各地のあらゆる宗教や慣習を、容易に生活に

取り入れられるのが、日本人の柔軟性であり長所でも

ありますが、しかし、こと信仰に関する事柄には、

誠実であるべきだと、私は思います。

「ただひたすら無条件に信じる」ということは、

「叶わなくても、信じ続ける」ということです。

これほどの強い信念をもって取り組まなくちゃ、嘘です。



・・・しかし、「信じるだけでいい」という系統の

幸福哲学がこれほどまでに流行するのは、これが、

手軽で簡単に実現できそうに思えるからということ

なのでしょうが、逆に言うと、それだけ自分の願望を

軽く扱っている人が多いからなのでは、という気がします。


自分の願望が、自分の身丈に合っていない、

自分は願い事の内容に相応しくない人間だと

心のどこかで思い込んで、自分を抑制している。

だから、願うことにためらいが生じる。

それを「信じるだけでいい」と言われて、

信じ込もうとするから、無理が出る。


自分に正直で誠実であろうとする人は、

自分の身の丈が分かっています。

願い事の大小とか金額の差という即物的な

ことではなく、自分に何が必要か不必要かを

感じられるものです。

だから、正直に誠実に祈ることができます。

そして、そういう人の願いは、大抵叶うものです。


では、どうしたら、

そういった感覚が掴めるようになるのか。


次回に続きます。



願掛け


先日、読者のココさんが、

以下のようなコメントを下さいました。


> 以前私は、素手で便所掃除をすると

お金が入ってくるという話を聞いて

早速実行してみたところ、

その週の内に2万円ゲットしました。


願いを叶える方法として、何かと交換条件だと、

罪悪感無く考えることが出来るのかも?

などと考えたことがあります。



真面目です。大変真面目な方です。

こんな真面目な方が、

幸せになれない筈がない。


そして、このコメントには、

非常に日本人らしい心性が

現れていると思いました。



たとえば、キリスト教的な祈りでは、

このような「交換条件」・「取り引き」

といった考え方はあり得ないんですよ。

この世の全ての物事を司っている

全知全能の神に対して、

「〜をするので、〜を叶えて下さい」

と祈ることは、人間の浅知恵。

それこそ神を侮辱していることになります。

「神を信じているなら、何故取り引きをするのか。

どうして、無条件に信じようとしないのか」。

となります。



が、努力するのが習い性の日本人にとっては、

この「何もしなくて良い、ただ信じるだけで良い」

というのが、逆に大変辛いところ・・・。

そして、日本の神々に対しては、

この「取り引き」こそが、

基本的とも言える接し方になるのです。


「取り引き」というと言葉が悪いですが、

「ただで願いを叶えてもらう訳にはいかない。

何かを叶えてもらうなら、それ相応の努力や

行動をしなければ」ということですね。

日本全国、ココさんのように考える方は、

沢山いると思うのですが、そもそも、

これが、古来から日本人が日本の神々に対して

取ってきたつき合い方なのです。

英語にギヴ&テイクという言葉がありますが、

それこそ日本人と日本の神々のつき合い方は、

ギヴ&テイク的なのです。

日本の神々が、極めて人に近い存在だからです。


願いを叶えてもらえるよう、

一定の努力的行為を行う。

このような「願掛け」と呼ばれる祈願法が

日本には存在します。


たとえば、

民間に古くからある祈願法として、

お百度参りというものがあります。


氏神神社もしくはその他の寺社に、

入り口から拝殿まで百回往復して祈願を行う。

その間、休んではならない

(50回目で小休止しても良いとも言われる)、

1日で行わなければならない、

その最中は口をきいてはいけない、

といった決まり事がある他、

裸足で行うことも勧められています。


このお百度参りの原型が百日詣(もうで)。

百日間毎日、祈願のために通い続ける

という、より厳しい方法です。


「三顧の礼」という格言もありますが、

1度だけでなく、何度も何度も

実際に足を運んで祈ることで、

神々に自分の願いの真剣さを

汲み取ってもらうのです。



また、茶断ち、薬断ちのような

断ち物という祈願法もあります。

神仏に願掛けをする際、

お茶、塩、薬、酒や肉など、

願いをかけてから一定期間、

自分の好物や嗜好品を摂らない

という祈願法です。


徳川家光の乳母であった春日局は、

家光が幼少時に大病を患った際に、

育て子の病気平癒を祈願するため

自らが薬断ちをし、一生これを続けました。


戦国時代、越後の虎と呼ばれた上杉謙信は、

武神、毘沙門天に御加護を祈願し、

生涯女断ちをしていたという逸話もあります。

自分の好きな物・必要な物を自分に禁じることで、

神仏に祈りの真剣さを伝えるのです。


野口英世の母シカは、アメリカに渡った息子を想い、

何年もの間(おそらく十年以上)、

毎月1日に塩断ちをしていました。



また、願掛けとは少し離れるかもしれませんが、

神仏に祈念する際、心身の穢れを祓い清めるために

滝水などの冷水に打たれる水垢離(みずごり)、

もしくは(みそぎ)と呼ばれる行もあります。

こうした清めも、ひとつの祈りの行為なのです。



ココさんの仰った便所掃除も

願掛けのひとつとなります。

家の中で特に不潔になりやすい場所を

きれいな状態に保つよう心がけるということは、

衛生面から言っても間違いなく良いことですが、

それ以上に、

場を清めること、

人の嫌がることを進んでするということ、

便所の神様に喜んで頂くということ、

という意味合いが込められています。



春日局は、家光の病を癒すため、

薬師を探す、不休不眠の看病をするなど、

自分にできることは全てした筈です。

そのうえでの薬断ち。


また、一流の武者であった上杉謙信も、

戦に勝つために

あらゆることをしていた筈です。

そのうえでの女断ち。


野口シカは、異国にいる息子のことを、

遠く離れた会津の村から祈ることしか

できなかったからこそ、

塩断ちをしたのでしょう。



願望を叶えるために、

先ずは、願望達成への直接的努力を行う。

そして、願望達成に直接結びつく訳ではないが、

自分に出来る今ひとつの努力を課す(願掛け)。


この2つの努力があれば、

「罪悪感無く」(byココさん)

神仏にお願い事をすることが

できるようになるでしょう。


真剣に、でも心晴れやかに、

堂々とお祈りできるようになれば、

願望の実現に向けて

大きな一歩を踏み出したことに

なりますよ。



横を向いて歩こう


「マーフィの成功法則」などの

基盤となっているキリスト教では、

自分という、

いわば上下の垂直関係を重要視します。


これに対しまして。


日本の土着信仰は、

横つながりの強い共同体的な関係です。



日本人の生活圏には、

数えきれないほどの神がいます。

田んぼに行けば田の神がいて、

道を歩けば道祖神がいて、

空を見上げればお天道様がいて、

水の神、山の神、海の神、

家に戻れば竈(かまど)の神がいて、

便所にまで神様がいるし、

家人が亡くなれば祖先神、家神になるし、

お米の中には七人の神様がいるというし、

熊、狼、鹿、狐、蛇、犬等々、動物も神だし、

家にある道具までもが、

古びれば九十九神(つくもがみ)になる。


おつきあいは大変です!

が、きちんとおつきあいすれば、

彼らは助けて護ってくれる。



前回、

「目に見えない神を信じるのは難しい」

と書きましたが、

そもそも「信じる」という言葉が、

実在すると証明しがたいものを、

実在すると思って疑わないこと、

の意味なんですよ。


その点、

日本の土着的信仰で崇められる神は、

身近に現に存在している者(物)達

ですから、「いるのか・いないのか」で

悩む必要が無いんです。


そして、「信じる」と言うよりも、

「畏敬の念を持つか・持たないか」

がポイントとなります。


畏敬の念とは、

「恐れ多いという想いを以て敬う」の意で、

そこには、

尊敬(尊重)、感謝、謙虚であることの

3つの気持ち・態度が込められています。


人、家、物、自然、動物・・・等々、

自分と接する全ての者(物)に

この3つの気持ちをもてるか。

彼らを大事にするということは、

自分の生活を大事にするということ。

そうすれば、

自分は満ち足りて生かされているのだ、

と気づくことができます。



・・・とは言っても、

一番難しいのは人間関係ですよね。

人には好悪の感情があって、

苦手な人、嫌いな人というのは

どうしてもあり、

尊敬、感謝、謙虚な気持ちを持てなんて、

それはそれで大変苦しいことです。


そんな自分を無理に変える必要は

無いと思うんです。

出来ることからしていけばいい。


自分の好きな人達、友人、家族、

お世話になっている知人、

自分が普段使っている道具や

気に入っている物、

家の中の植物、ペット。

彼らを、大切にすること。


苦手な人や嫌いな人がいると、

自分のことが嫌になりますよね。

そんな自分を変えたいのに、変えられない。


でも、そんな情けない自分なのに、

自分を好きでいてくれる人達がいるんです。

そう思ったら、感謝の気持ちが沸いてきて、

益々その人達を大切にしたいと思えるなら、

取りあえず、それで良いではありませんか。



で、自分の好きな人達とは、

ちゃんとつき合っていきたいものですね。

甘え過ぎたりせず、尊重し、感謝し、

会うときは、笑顔で挨拶もできているでしょうか。

普段使っている道具や気に入っている物に

感謝の気持ちを持って使い、汚れを取ったり、

磨いたり、手入れをしてあげているでしょうか。

植物やペットの世話をして、可愛がってあげている

でしょうか。

忙しかったり、自分に余裕が無いときは、

ちゃんとつき合えないこともあるでしょう。

そのときに、

「ごめんね」という気持ちを持てているでしょうか。



・・・結局ですね、

身近にいる人や自然、動物、物までもが、

ありがたい尊いと意識されうる土壌で

育ち暮らしてきて、

そのありがたさ尊さに気づけない人間が、

いくら目新しい方法にとびついても、

何も得られないと思うんですよ。



遠くを見る前に、

元々持っている筈の大事なものを、

もっともっと意識して

大事にしてみようではありませんか。



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